ジャーナリズムのトップ・ランナーとして 荻野 富士夫 (小樽商科大学商学部教授)
小樽高等商業学校(現小樽商科大学)の1935年5月の「学生生活調査」によれば、学生の愛読する雑誌では第一位の『経済往来』についで、三年生では『改造』が第二位に、二年生では第四位に位置している(『緑丘』第八八号)。42年の読書調査でも『中央公論』についで『改造』は第二位を占めている(同、第159号)。戦時下の北辺の実業専門学校においても、政治・経済・国際関係、社会問題への羅針盤としての総合雑誌の雄を読む学生が少なからず存在した。図書館所蔵の合本された『改造』のいくつかは折込目次の頁が破損し、本文にも傍線や書込みが散見する。 その書込みの大先輩が、文学修業中の小林多喜二であった。多喜二は小樽高商在学中、図書館架蔵の『中央公論』や『改造』の創作欄を夢中で読みふけり、その読後感を書きつけてしまう。たとえば、『改造』1924年新年号の芥川龍之介「三右衛門の罪」について、「相変わらず、最後は、芥川らしい、頭のいゝトリックをもつて終えてゐる。然し、しつかりしてゐる、と思ふ」と。その多喜二は、六年後、『改造』の不名誉になるような作品には「絶対にしない積り」(編集者佐藤績宛書簡)との覚悟をもって、「工場細胞」を執筆する(1930年4月、5月、6月号掲載)。33年3月号の「地区の人々」は絶筆となる。 『改造』が『中央公論』とともに「横浜事件」の激震のなかで廃刊を強いられていく遠因について、両雑誌の「背後に三十万の知識階級│政府のオポジション」があると観測し、それを強引に「取り除こう」とする「東条内閣の政策の一つ」であったと、清沢洌『暗黒日記』は記す。小樽高商の学生はその予備軍のごく一部だった。細川嘉六の「世界史の動向と日本」(1942年8月、9月号掲載)は、もちろん「共産党再建準備会」の指令論文ではなかったが、客観的実証性をもって戦争反対の意志を秘めていた。取締当局はめざとくそれをかぎつけたのである。ジャーナリズムのトップ・ランナーとして、デモクラシーからプロレタリア運動、そして自由主義の先頭を走りつづけたこの雑誌は、それゆえに背後の読者を含めて総力戦下の思想統制にあたって障害物とみなされた。 その先頭走者の虚実を含めて1910年代末から四半世紀の『改造』の軌跡をたどることが、今回のマイクロ・フィルム化によって容易になった。日本近現代史を志す者にとっても朗報である。
「戦間期」メディア史研究の宝庫 佐藤 卓己 (京都大学大学院教育学研究科准教授)
『改造』のマイクロフィルム複製化は、メディア史研究者が鶴首して待っていた朗報である。雑誌研究の基本は、まず全体を通読することだ。創刊号から終刊号(刊行継続中なら最新号)までとにかく目を通すこと、そのために図書館の書庫に籠もることが可能ならば、それはそれで贅沢な時間の使い方なのだが、実際はなかなか困難である。私の場合、コピー機の前で最初から一頁づつめくりながら関心ある頁をひたすら複写していく。何時間も立ち続ける体力勝負だが、一番困るのは劣化が著しい戦前・戦中期の雑誌のコピーである。取り扱いに神経をすり減らすため、作業中に十分な内容のチェックが出来ない。さらに最近では資料保存を理由にコピー自体が認められないことも多い。この意味では、雑誌のマイクロフィルム化は何よりも有り難い。
特に『改造』は、第一次大「戦後」の1919年4月に山本実彦によって創刊され、第二次大「戦中」の1944年6月に廃刊した、「戦間期」言論界を象徴する総合雑誌である。創刊者の山本実彦が政治家志望(実際に1930年と1946年の衆議院選挙に二度当選)のジャーナリストだったこともあり、時代の潮流を読むセンスは抜群だった。創刊第四号「労働問題 社会主義批判号」の大ヒット、1922年のアインシュタイン招聘など派手なメディア・イベント、出版大衆化の先駆けとなった1926年「円本」『現代日本文学全集』予約開始など、メディア史上で特筆される出来事である。
また、この「社会改造」雑誌は大手出版社としては異例の多さで発禁処分を受けている。もちろん、初期には処分そのものが雑誌宣伝となって部数激増をもたらしたが、やがて戦中の強制的廃業へと追い込まれていく。第二次大「戦後」の1946年1月に復刊されたが、山本実彦も公職追放令を受けており、『改造』が往年の輝きを取り戻すことはなく、社内の内紛で1955年2月終刊している。現存する『中央公論』や『文藝春秋』に比べても研究は遅れているが、このマイクロ化を契機に飛躍的に研究が進むことはまちがいない。戦間期『改造』というメディア史研究の宝庫の扉がいま開かれる。
『改造』
─満身創痍の一冊から 宗像 和重 (早稲田大学政治経済学術院教授)
いま私の手元に、以前購入した『改造』九巻九号(昭和二年九月)がある。この年7月に自裁した芥川龍之介の追悼特集号として知られているが、同時にこの号は、中里介山の連載小説「夢殿」が内務省の検閲処分を受けた号でもあった。聖徳太子の時代を描いたこの歴史小説が、全文削除(誌面の切取り)処分を課せられた経緯については、近刊の紅野謙介氏『検閲と文学』に詳しい。私の持っている号も、当該の約二十頁をのどの根元から切取った、そのけばだった切り口が無惨に露出していて傷々しい(実際には切取りを免れて流通した号も存在する)。 改造社の社員として、こういう現場も経験したことのある作家の上林暁は、「要所を切取られ、「削除済」の判を捺された雑誌は、急に生気を失つて、死物に化したやうに思はれた」と述べているが、まさに満身創痍ともいうべきこの一冊を手にすると、雑誌が喜怒哀楽の表情に富んだ生き物であることが実感される。大正デモクラシーの機運を背景として誕生し、戦争に向かう時代と切り結んでゆくことになる『改造』の足跡は、雑誌が時代の申し子であり、時代を映す鏡であり、そして時代を動かす力を持った媒体であることを、何よりも雄弁に物語っている。
残念ながら今日、その雑誌の活力が失われ、とくに総合雑誌において衰退の兆しが著しい。『改造』も一般的には総合雑誌と称されるが、創刊号の新聞広告では、「月刊政治経済外交文芸雑誌」と欲張った名乗りをあげ、第二号の広告では「政治文芸雑誌」と銘打っていた。政治と文芸、――すなわち政治がすべからく言葉の業であり、文学表現がそれ自体として政治性を帯びることを、『改造』ほど如実に体現している雑誌はない。このたびのマイクロフィルム版の刊行がまさに時宜を得ているのは、近年、山本実彦旧蔵の『改造』直筆原稿類や、改造社出版資料が刊行されて、注目を集めているからばかりではない。希有の活力をもって同時代の政治を語り、文学を生み出したこの雑誌の軌跡を、一つの希望として、また来るべき時代への警鐘として、繙くことが強く求められているからである。
大正・昭和期の思想・文学研究に必備の雑誌 須田 千里 (京都大学大学院人間・環境研究科教授)
雑誌『改造』は、改造社社長山本実彦により大正八年四月創刊。戦時中一時廃刊されたが、昭和21年1月に復刊、以後昭和30年2月まで全四五五冊発行された総合雑誌である。創刊当時は特色を出せず、いわゆる三号雑誌に終わる危険もあったが、四号以後、「労働問題 社会主義 批判号」や「資本主義征服号」など、発売禁止覚悟で急進的な特集を組み、主要な読者層である労働者階級の心をつかんで急速に発行部数を伸ばす。初期の編集者横関愛造・秋田忠義・浜本浩らは時代の動向を鋭敏につかみ、東京だけでなく京都帝国大学の教授など幅広く執筆者を起用。大正10〜12年には、日本に招聘したバートランド・ラッセルやアインシュタインの論文を掲載して学界を驚倒させる。この頃には、先行する総合雑誌『太陽』(明治28年一月創刊)を凌駕し、『中央公論』(明治32年一月『反省雑誌』から改題)と肩を並べていた。
一方、創作面に目を向ければ、創刊号には幸田露伴『運命』一挙一〇〇頁が載ってその復活を印象づけ、翌大正九年には賀川豊彦『死線を越えて』を連載、爆発的な人気を博す。さらに滝井孝作が文芸欄を担当してからは、その人脈と、原稿料の大幅引き上げが功を奏し、泉鏡花・正宗白鳥・徳田秋声・志賀直哉・芥川龍之介・菊池寛・佐藤春夫ら大家・新進がこぞって寄稿。志賀の『暗夜行路』も、谷崎潤一郎の『卍(まんじ)』も、芥川の遺稿『或阿呆の一生』も、横光利一の『機械』も、堀辰雄の『風立ちぬ』も、本誌に掲載された。谷崎の文芸評論『饒舌録』や夏目鏡子述『漱石の思ひ出』など、中間読物欄も忘れがたい。
このように、本誌は大正・昭和期の政治・経済・社会思想・文学等の研究に必備の雑誌であるが、よく読まれたため、全冊揃いを良好な状態で所蔵する図書館はなかなかなく、長らく複製版が待たれていた。今回、臨川書店は昭和19年6月号までの戦前分三三四冊についてマイクロフィルム化し、発売するという。
待望の複製版が、いよいよ世に出る。期待と興奮を禁じ得ない。
『マイクロフィルム版
改造』トップページ
臨川書店ホームページへ戻る |